zaawawa unima舎 design 風のようにart ウニマ舎
2020-11-19T01:14:17+09:00
unima
illustration/shadow show/pappets design/short story/Ilove art. And I want smile smile. hope no war.
Excite Blog
TOPページ。新しいブログ記事は下記へあります。
http://zaawawa.exblog.jp/14969111/
2021-01-18T09:47:00+09:00
2020-04-22T16:36:33+09:00
2011-02-25T14:46:03+09:00
unima
zaawawa
http://unimadesign.web.fc2.com/
のぞいてみてください。
まだ途中の所もありますが・・・^-^
冊子できました。
file:///Users/uedasayuri/1018527_10571014/HTML/list1.html
2012年
我が家でのacordion木村恵太郎くんのソロライヴの日
ビデオも作ろうよ。とemmikuさんに提案お願い^-^して
・・・その映像ができました〜
かっこい〜さわやか木村クン。夏のある日。
http://youtu.be/R1-2N-2g--g
爽やかで不思議な
キムラケイタロウの世界と大江さんのバレエ・タムラ・ド・ヒサシィのパフォーマンス+
ウエダサユリが色彩で演出
http://youtu.be/HeCbBjDnG0Q
影絵とのコラボはこの2012 10月の月の鼓動というイベントの映像です。
ごらんください。
このページは常にトップに表示されますので
最新記事は下記をご覧下さい。
zaawawa(2003--) shop が coffee が飲めるデザイン事務所(1990--)として
ひそかに・・10.june.2012 に 再開しました。
ジャンクなお店に蛇舞珈亭のこうしいを楽しめて豆もお分け致します。
デザイン業もしながらですので不定期のopenとなりますので
こちらにオープン時間をアップしたいと思います。
あっ・・・それと・・時たま猫が店番しています。お知らせまで。。。。。
http://zaawawauni.exblog.jp/
you tubeに
2005〜のunima個展などの写真などを
スライドにしてアップしておりますのでご覧下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=1NNg5mgLGjg
http://www.youtube.com/watch?v=_oBm4mncTJc
こちらは2003くらいからの作品とzaawawaのお店の写真です。
のぞいていただいただけたらうれしいです。
では・・・お元気で ^-^
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1946年 戦後BC級戦犯となった青年の獄中日記 小野哲 5月10日
http://zaawawa.exblog.jp/30299094/
2020-11-19T01:11:00+09:00
2020-11-19T01:14:17+09:00
2020-11-19T01:11:45+09:00
unima
BC級戦犯 小野哲 獄中日記
川村巌 殿
小野政雄殿
ご両親 様
小野哲 拝
五月十日 金曜日
去る四月二十二日縛首の宣告を受けてから約二十日を経て、そろそろ首に縄が絡みさうですから、
今日から逐次御別れの漫談でも書き初めることに致します。
此処の死刑囚は今約五十人で私の獄舎は八名、
河野中将(53)溝口少佐(42)内藤さん(42市民)多吉伍長(30)平田曹長(26)植木さん(19)小生(26)で
死ぬのも知らぬげに日ねもす馬鹿話、歌、浪花節で陽氣にやってゐます。
米国の陸軍次官とやらが来た時に死刑を宣告された者達とは思へぬとて驚いたとのことです。
河野中将も子供の様に春画を書いて廻したり初恋の話をしたりです。
どうも話が此辺に落ち着く所は多吉さんと平田曹長に皆が気を合はせるからでせう。
内藤さん大分鳴らした悪党らしくニヤニヤ笑って決して嫌な顔はしません。タバオの邦人です。
植木くんは十九才で日本語、英、支、西、ビザヤ語でぺらぺらやり、目玉がぐりぐりした可愛い顔をしてゐます。
皇軍が討伐をやったのに通訳で行って、16才の時、兵隊がやった事件の通訳をやったとかで死刑です。
日、比の二重国籍で随分派手な生活をやってゐたらしく話す所は華族の様です。
顔が良い故に囚人前には米軍婦人部隊へ通訳に行ってゐたさうです。
飯は食い慣れぬので食えぬと何時も残すのでドル箱です。
河野中将は銃剣術九段(日本で一人)剣道七段、柔道二段でなかなかの気骨漢です。
溝口少佐は兵隊から務めた人で神道で毎日座禅をやってゐる反面情に脆い人です。
部屋は金網張りのセメント床、明るくて広々とした中々、心地の良い所。
備品は洗面器、寝台、水筒、毛布、蚊帳、煙草道具、洗面具。
一人顔振れが抜けました。台湾のリンさん(24)さんです。純情なはきはきした好青年です。
其父に宛てた手紙は名文で日本の教育を受けた凛々たる気迫、南国の情熱、父への孝心が溢れてゐました。
台湾600万の代表だと意気込んでゐます。
日常生活は朝勝手に起きれば歩哨(ホショウ・軍で警備などの任務につく兵)が歯ブラシを準備してゐる。
煙草を吸って(極めて豊富)朝飯が差し込まれる。懲役組が掃除に来る。
散歩(警戒兵付の二名宛)15分、便所、昼飯、散歩、水浴、晩飯、寝る。
持て余す暇はワイワイ騒いだり昼寝したり、トランプ占いをやったり、マァ、屠殺前の豚位いなものです。
死刑執行者が出る日丈は流石にヒッソリしてゐますが翌日からは又陽気です。
歩哨(ガード)は二名まで服務して米人らしくなかなか茶目で親切、掛り下士官も実直純朴そのもので
私は看護婦から来た人形をプレゼントした位ひです。
"good morning Ono 大尉"
"Yes You are グレン "
"Okay youplat no captain okay?"
"OK and your hanged,Ishall be out ・・・・・・・・・guard it's change"
"ok no no no-good "
"ウハ・・・・"
多吉さん息せき込ませ目を細め
「のぅ〜内藤のオッサン、そろそろ首に来るで何ぞぇー話してくれんかの〜あのさズロースに手を突っ込んだ話良かったぜ」
「それや 何処(ドコゾ)の話だ 俺は月経不順の娘作る様なお前と違って話しはないぜ」
大体話は此の辺から始まり結局内藤さんもドロを段々吐いて来る。
各人遂次戦斗に加入して境遇の多面な各人の話題はつきそうにありません。
皆少し腹が減ってゐるので食物の話となると唾を飲み込む苦しさに「もうよそう」と云ふことになります。
死刑執行の命令が来て刑場に行き他の者は刑を執行されたのに何かの都合で刑執行前のビールを飲んで来たと云ふ者が出来た。
内藤「オイ死ぬ前にはビールを飲ますさうだぜ」
多吉「イヤ 何でも食はすさうだ」
小野「そりゃ 初耳、良いのぅ」
内藤「本間さんはすき焼き食ってエライ気炎でそれ射て!と張切ったので射手がこわかったそうですぜ」
多吉「ビールは太田大佐が始め飲むと云ったので其れから何時でも出すそうですぜ」
内藤「山下さん(山下奉文)は早かったので知らずに飲まなかったそうだ。それからの大田大佐は刑まで寝ると云って一眠りしたさうですぜ」
内藤「フ・ン 大した度胸だな、よい気味だ」
多吉「内藤さん、あんた何食いますか?」
内藤「やっぱりすき焼きはエイですな、小野さんは何です?」
小野「正油や水の代わりにバタを使ってやれば良いすき焼きが出来るさうです。先ず甘いケーキにクリーム、
チョコレート、すき焼き、鰯の缶詰でウイスキー飲んで、生卵飲んで、ドリヤン此の辺ですね」
多吉「何か一ツ日本らしいのが欲しいですな。焼き茄子に味噌はどうです?」
小野「ハ・・・・」
内藤「餅はどうぢゃ!」
小野「ウーン、そりゃ良い ホレ あのすき焼きに餅いれてさ」
多吉「どうも日本人は味噌と餅が一番忘れられんのー」
小野『然し、多吉さん、毛唐は餅等持たんだろー」
内藤「今のうちに注文書出しとかんならんの」
多吉「せめてぼた餅でもね」
小野「砂糖の腐る程あるフィリッピンの邦人はどんなぼた餅作りますか?」
内藤「ソリャ、アンコが八部から一寸位で別にアンコを塗りながら食ふので それにココアを少し入れてね」
多吉「ヘェ」
小野「死ぬ前にゃ蓬餅(ヨモギモチ)位出してくれんかな。焼く時の香、ジュルジュルとはみ出すアンコ、
熱い奴をフーフー食い付く黄粉の味、昔しゃ大したもん食っとったですな」
多吉「アァ楽しみだな、こんな生きているか死んでいるかわからん生活より早くビール気嫌でブラ下がった方がましだ。
荻野はもう安らかに眠ってゐますよ。何も考えずにさ」
内藤「こんな事になったぞ考えてみりゃ つまらんフィリッピンの奴に親切にして顔知られたばっかりに
聞いたことも無い事件でフィリッピンの奴が名を出しやがったんだ!本当の本人はもう内地へ帰ってゐルンだが、
奴ら、名を知らないんでワイワイ俺の名を証人が言ったんだ。お国の犠牲と諦めてはゐるが・・畜生!!」
多吉「ソリャお互いさま、何しろアメリカにしてみりゃ日本人を澤山殺し左へすりゃ良いんだからな、
此調子で行きゃ死刑千人は下らんぜ!敗戦だ!」
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原爆で亡くなった私の祖母から疎開先の長男への手紙 1945年6月? 横山幸子
http://zaawawa.exblog.jp/29971860/
2020-03-21T23:53:00+09:00
2020-03-21T23:53:25+09:00
2020-03-21T23:53:25+09:00
unima
戦時中の祖母 横山幸子手紙1945
荷物の疎開の方が忙しくて遅くなって御免なさい。
お二階のお道具もほとんど疎開させました。
豊の道具も小學生全集も皆やりましたよ。
明日 長尾さんがいらっしゃるようだから
フンドシを持って行っていただくつもりです。
これから暑くなりますから体に気をつけて下さいね。
冬の物なんかどうしておりますか。
汚れたままで入れておくと梅雨にカビがはえてしまいますから
よく日にほすか、洗ってもらふかして入れておかないと行けませんよ。
蓉子も此の頃、自分でお洗濯をしています。
東京の千足が森田の家と後少し残っただけで、他はやけたやうですよ。
間中さんと云って森田の前にあった家もそれから森田の右側に
庭の向ふ側にあった家も皆焼けてしまったさうです。
稔兄ちゃんは元気です。稔兄ちゃんの家に焼けたお家の方がワンサワンサと
おしかけて今大勢ですんでるさうでか。
さあ 皆元気でやりませうね。
友田のお母さんも豊を
しっかりして おとなしくてとほめていらっしゃいましたよ。
皆ほめてくださるのでお母さんもとてもうれしく思って居ります。
少々はつらいことがあってもがまんしませうね。
お母さんもね、つらい事があると、
豊でさへ、あちらでがまんして強く生きているのだから
お母さんが負けてはチャンチャラオカシイ と思って何時でも強くなります。
では 又ね さようなら
豊殿 母より
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原爆で亡くなった私の祖母から疎開先の長男への手紙 1945年6月? 横山幸子
http://zaawawa.exblog.jp/29971859/
2020-03-21T23:53:00+09:00
2020-03-21T23:53:20+09:00
2020-03-21T23:53:20+09:00
unima
戦時中の祖母 横山幸子手紙1945
荷物の疎開の方が忙しくて遅くなって御免なさい。
お二階のお道具もほとんど疎開させました。
豊の道具も小學生全集も皆やりましたよ。
明日 長尾さんがいらっしゃるようだから
フンドシを持って行っていただくつもりです。
これから暑くなりますから体に気をつけて下さいね。
冬の物なんかどうしておりますか。
汚れたままで入れておくと梅雨にカビがはえてしまいますから
よく日にほすか、洗ってもらふかして入れておかないと行けませんよ。
蓉子も此の頃、自分でお洗濯をしています。
東京の千足が森田の家と後少し残っただけで、他はやけたやうですよ。
間中さんと云って森田の前にあった家もそれから森田の右側に
庭の向ふ側にあった家も皆焼けてしまったさうです。
稔兄ちゃんは元気です。稔兄ちゃんの家に焼けたお家の方がワンサワンサと
おしかけて今大勢ですんでるさうでか。
さあ 皆元気でやりませうね。
友田のお母さんも豊を
しっかりして おとなしくてとほめていらっしゃいましたよ。
皆ほめてくださるのでお母さんもとてもうれしく思って居ります。
少々はつらいことがあってもがまんしませうね。
お母さんもね、つらい事があると、
豊でさへ、あちらでがまんして強く生きているのだから
お母さんが負けてはチャンチャラオカシイ と思って何時でも強くなります。
では 又ね さようなら
豊殿 母より
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原爆で亡くなった私の祖母から疎開先の長男への手紙 1945年6月12日 横山幸子
http://zaawawa.exblog.jp/29971782/
2020-03-21T22:52:00+09:00
2020-03-21T22:52:28+09:00
2020-03-21T22:52:28+09:00
unima
戦時中の祖母 横山幸子手紙1945
後もしっかりがんばってください。
第一回って書いてあったけど初めての考査だったのですか。
100点の点数よりもそれまでの努力が貴いのね。
何事も結果だけでなく、そうなるまでの努力が大切なの。
豊がよく勉強すると云ふ話は聞いてゐました。
人の前では「そうですか」って云ってましたけど内心とても喜んでゐたのです。
でも、勉強の虫にならない様に運動もしっかりやって体をきたえてくださいね。
お父様も元気で戻っていらっしゃいました。
蓉子も元気にして居ります。此の間、大芝の家に荷物を運ぶ時荷車の後について
蓉子一人で向ふの家に行きました。そして、丁度その次の日曜だったので、
一晩泊まってその翌日夕方一人でテクテク歩いて歸りました。
蓉子は前から電車が嫌いだったせふ。
電車に乗ると大人のお尻の間にギュウギュウにはさまれるから嫌なのでせう。
オルガンも蓄音機も茶柵も本箱も皆あちらに送りましたので、
二階の座敷もとても広くなりました。オルガンを向ふへ持ってゆく時は
「嫌だ嫌だ」って蓉子がワンワン泣いて困りました。
でもね、あちらの家に弾きに行けばいーからって云ったら
泣きやめて エヘヘ・・・って笑ってました。
それで早速此の間一泊して弾きに行ったのです。
豊の洋服シャツ本等も大芝に置いてあります。
それから平良の三井様にも豊の着る物は夏物も冬物も一通り置いてありますよ。
豊の飛行機の模型は大芝に行って居ります。
蓉子はどうも顔が子供らしい故か髪があんなにしている故か
皆が二年生だと思はないのよ。
此の間も美恵子姉ちゃんと二人で電車に乗って美恵子姉ちゃんは
蓉子は子供だからって切符を買はなかったら
「蓉子は二年生よ!切符入るのよ」って大きな聲で云ったのでびっくりした
って笑っていらっしゃいました。
豊もそちらでどんな事してるか時には皆の様子を教へてくださいね。
家の前の貯水槽はまだ掘ったまま、大きな口を開けて大空をにらんでゐます。
早くあそこに水が入ればいーのですけどね。
此の頃は子供が少ないのであの中で遊ぶ子供もありません。
今日は一丁目の人達が手拭いを姉さんかぶりにして防空壕のあたりを
皆できれいにしていらっしゃいます。
では、くれぐれも体を大事にして下さい。
六月十二日 さようなら
豊殿 母より
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1945年私の若き祖母の 九州の実家へ覚悟の手紙
http://zaawawa.exblog.jp/29954215/
2020-03-09T18:35:00+09:00
2020-03-09T18:46:18+09:00
2020-03-09T18:35:15+09:00
unima
戦時中の祖母 横山幸子手紙1945
おおのぢゃ 主人もご馳走が食べられないと大変喜んで居りました。
煮物もなくてこの間から送って頂く干大根などで
どうやら其の日其の日を間に合わせて居ります。
干し大根がまだ御座いましたらお願いいたします。
毎日今日が最後最後と思って過ごして居ります。
大阪、神戸などの話を聞きますと焼夷弾の力は相当なもので
特に家の密集した商店街は一溜まりもないさうですから私の所なども
簡単に片づきます事でせう。
豊は学校の方から集団疎開する事になりました。
蓉子は小さいので家に残る事になって居ります。
鹿島の事も考へましたけれど 余りに遠くて生き別れになりそうですのでやめました。
途中が危険ですからと思ひました。
今の所 家族の者は家と運命を共にするつもりで居ります。
豊に万が一の事があって豊丈が生き残る事になっても力を落とさずに
力強く生きてくれる様 言い聞かしてあります。
ウンウンとうなづいて居りますが
果してその時になって強くあってくれるかといささか気になります。
そちらの方は遠くてこちらの様子はわかりませんでせうけれど
風の便りでも豊が一人残ってる事がわかりましたら
何卒 力になってやってくださいませ。お願い申します。
最後の覚悟はして居ります。日々はやはりその日その日の事に追はれて居ります。
皆、朗らかに笑ひ合って過ごして居りますから 御安心下さいませ。
主人も後一月程 亦 延期になります様です。
時々公用で還れる様になりまして
家で畳の上に布団をしいて二時間程やすませてくれと云っては
何時でも二時間程眠って 夕方 亦 隊の方へ帰ります。
東京の洗足の方は無事ださうで安心しました。
稔の会社は大丈夫なのでせうか。
神戸もひどかったさうですが政美さんの家は無事らしゅう御座います。
まだ手紙は参りませんけれど。
修はどうして居りますでせうか。研二さんの事もわかりません。
茂子さんは岡山があちらのご両親のお国ださうで
ご両親と一緒に岡山の方に疎開なさる事になりました。
今の所 横山の方で夫婦揃って暮らしてるのは政美さんとお母様方丈です。
後は皆 兵隊後家ばかりゴロゴロして居ります。
もう、こう切迫していると皆の神経が太くなりますのでせうね。
平気で死ぬ事について話せる様になります。
ほんとに長い間色々お世話になりました。
なんとお礼を云っていいかわかりません。
御礼だなんて口で云ったのではほんとうに
その感謝の気持ちが表現できないと思います。
心配のかけ通しでさらばさらばになりさうです。
ほんと有難う御座います。
物心がついてから此の方の事が次々と思ひ出されてなつかしくなります。
お母様のおかげで大手を振って世の中を通ってきました。
ほんとに私が今こうしてゐるのもお母様のおかげです。
色々ご心配おかけしてすみませんでした。
私なども今母と云ふ立場にありますが とても お母様の足元にも及ばないと
深く恥ぢて居ります。なかなか出来ない事でございますね。
御父様 正一郎兄様、勾枝様にもくれぐれもよろしくお伝えくださいませ。
お身体大切に願い申します。
御母上様 幸子
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原爆で亡くなった私の祖母から疎開先の長男への手紙 1945年7月9日 横山幸子
http://zaawawa.exblog.jp/29954070/
2020-03-09T16:43:00+09:00
2020-03-21T18:44:29+09:00
2020-03-09T16:43:49+09:00
unima
戦時中の祖母 横山幸子手紙1945
先日貨物列車で豊の敷布団一枚(これはもう一枚のが若しぬれたりしたら使いなさい。
冬は二枚敷いて寝ると暖かいでせう。)とその中に色々入れて居ります。
ウチワは先生にあげて皆さんで使って下さい。
もう一つの木箱には小學生全集を入れて居ります。
少し はいらないの丈敷き布団の中に入れて居ります。
それから こちらに28,86(番号をしっかり覚えてゐないけど)の二冊残ってゐました。
1から全部はありませんから先生にそう云って ないのは番号を何かに書いておいて下さい。あの小學生全集は平岩先生からも本を送ってくれと頼まれたので送ったのです。
豊の物だけど皆さんにも讀ませておあげしたら あの本としても嬉しい事だらうと思って送ったのです。他の本も皆で仲よくお讀みなさい。唯、讀んだ後ほったらかしにしないで ちゃんと揃えておかないとなくなりますからね。よく気をつけて下さいね。
蓉子も學校がずっとお休みでしたが今日から堺町の樽田さんと云ふお家で近所の人ばかり六人程で勉強する事になりました(寺尾、樽田、横山、田辺、和田、上木、林)蓉子も大芝からバスで横川まで行きそこから電車で土橋まで行って歩いて行きます。
一週間に三回丈です。
此度 大手町二丁目の家が建物疎開になりました。今日その話が町内から来ましたが
十五日迄に立退くのださうで お母さんも ヒャーと悲鳴をあげました。
大分は大芝の方に疎開して居ります。
が まだまだ 澤山 お荷物がありますから大変です。
明日(十日)から皆で向ふ鉢巻ソラサーサでがんばらないといけません。
随分長々住んだ家ですから 名残惜しいのですけど こうした戦争の場合ですからね
そんな事云ってゐられません。
此度は大芝の方に手紙頂戴ね。
広島市大芝町一六五四 横山ムメ方 横山幸子
この疎開はね 二丁目は家からずっと藤井さん、田中さん、萩野さん、木村さん、石井さん、電文社、尾前さんとずっとです。
牛尾さんと志村さん(ジマシ堂)が残ります。
向側の大下の小路の中も反田のうどん屋なども全部です。
だから、
大手町二丁目で残るのは牛尾さん、志村さん、早川さんなど五軒しかありません。
随分変わりますよ。
三和銀行、日本生命、海軍監督官事務所(元の銀行集会所)保険局等が残ります。
それでね まだよくわかりませんが本通前片山洋服店云ふのが牛尾さんの前にあったでせう あそこを借りて店の物丈を置いて あそこで賣る様にして
他のは 裏の蔵は残りますから あの蔵の中へはいる丈いれて
他の物は大芝か平良の三井に持って行きます。
倉とあの倉の前の御不浄は残ります。大変でせう。
それでね、十二日の■体面会にお母さんも行くつもりだったけど そんなわけで
テンテコマヒのヒャーラヒャラをしているから
とても行かれませんからね。がまんしてね。その代わり疎開がすんだら行きますよ。
此度も大体二回以上行った人は行かれない事になってるのだけど
さしつかえが出来て行かない人があったので、その代わりに行かふと思ってゐたのだけれど おジャンになってしまってオンヤオンヤなのよ。
手紙の上書を間違へない様にしなさいよ。
西警察の向ふ側もずっと疎開で吉野の自轉車屋もないのよ。
それから華屋町の電車道のべっぴん店もないの。広々となりますよ。
では又ね
先生によろしくね。 さようなら。
七月九日夜 母より
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原爆で亡くなった私の祖母から疎開先の長男への手紙 1945年7月23日 横山幸子
http://zaawawa.exblog.jp/29953809/
2020-03-09T13:01:00+09:00
2020-03-09T18:48:47+09:00
2020-03-09T13:01:09+09:00
unima
戦時中の祖母 横山幸子手紙1945
又もっと詳しく様子を知らせ度いと思って手紙を書いています。
此度ね、店の道具から其の他澤山 大芝へ送る暇がなかった物を
前の片山呉服店の所へ運んで 皆 そこで暮らすつもりだったのよ。
まぁ片山のお店から裏の方から荷物が山の様に積んであって
唯ほんのわづか丈通る所が開けてある丈で右を向いても左を向いても荷物の山 又山
其の中に少しの隙間をつくって食事をしたり寝たりしてゐます。
運び込んだ荷物が何処に何があるのかさっぱりわからなくて
便箋も封筒もペンも代用で間に合わせてゐる次第です。
お父様は警備召集で草津の小學校に行っていらっしゃいます。
一月以上です。時々晝間(昼間)一寸公用でお歸りになります。
夜はお祖父様と私と良子さんと三人で泊まります。
朝になるとお祖母様蓉子がノコノコと大芝から出て参ります。
美恵子姉ちゃんと愛子姉ちゃんと徹ちゃん、
ちっちゃいお祖母ちゃん達はずっと大芝です。
前の横山のお家も尾前さんの家にも一昨日から陸軍の兵隊さんが大勢いらして
カッタンカッタンヨイコラショと家の中をこはしていらっしゃいます。
横山のお家は昔からずっと続いた古いしっかりしたお家なので
中にいぃ木が そして大きい木が使ってあるので 中々かすぐはこわれないらしく
兵隊さん達も汗ダラダラ流していらっしゃいます。
今日夕方行ってみたら お店の方はすっかり天井も何も取って
下から上がつつぬけに見えました。裏の方は柵やなんか取ってありました。
兵隊さんが「大きなお家に住んでいらっしゃったのですね。ほんとにお気の毒ですね」っておっしゃいました。
裏のお風呂の釜は暁部隊の兵隊さんにあげました。
昨日の朝取りにいらして
カッタンカッタンこはして ヨイコラ ヨイコラ運んで行かれました。
豊達が「あー気持ちがいーね」と思ってはいったお風呂に此度は兵隊さん達が
「オーイ 皆 風呂だ 入れ!!!」と云っておはいりになるでせうね。
お風呂もお国のお役に立って喜んでゐるでせう。
豊のお家も 大きい木は皆兵隊さんが大八車にのせて
これもお国のお役に立つために運んでいらっしゃいます。
お二階の金魚は今こちらに皆と一緒に引っ越して元気に泳いで居ります。
所がね、今私達がゐる片山洋服店が又近日中に建物疎開になるらしいの。
漸く 横山からここへ運び込んだばかりで 皆 まだ休憩もしない中に
又何処かへお引越しなくては いけないのよ。
皆 へードナイシマセウ と云ったまま がっかりしてしまって
ヘナヘナ と座りこんでしまったの。
ほんとに何て云ったらいいのか しまひには おかしくなって
皆 笑い出してしまったのよ。お引越しのお稽古ね。何度も何度も。
だから又忙しくなってしばらくは西城へも行けなくなりました。
豊が頼んだものなど持って早く行き度いのですが
そんな具合で行けませんから もうしばらく がまんしてね。
その中どなたかお頼み出来たら頼みます。
それについて今日面白い事がありました。
附国(広島師範附属国民学校)の賣店の小母さんね あの方が今日 本通りを通ってる時
蓉子を見てね「アラ 横山さんのお家も建物疎開 お気の毒ですね」
など涙していらしたの。
そしてね、「明日西城へ行きますから何か持って行ってあげませう」
とおっしゃったので筆入れと骨筆と黒い紙とお頼みしたの。
そしたら夕方になって 又 あわてて其の小母さんが家にいらしてね
「まぁね、あれから家へ歸って見たら家も建物疎開ですよ。まぁまぁ
學校へも電話をかけて西城へ行くのを一週間程先にしてもらひます。
それですから、坊ちゃんへのおことづけも 一週間先に参りますから
すみませんけど、一旦お歸へししておきます。」っておっしゃってね
私達もびっくりしたりお気の毒だったりしました。
ほんとに此度は建物疎開が多いのよ。
とにかく大きい建物の傍は全部除く様になるの。
私達も今考えてるのよ。
大芝にとても荷物がはいらないし、どうしやうかと思ってるの。
又きまったら知らせますからね やっぱり大芝の方に手紙出しておきなさい。
私が西城へ面会に行ってから一度も豊から手紙が来ないけど
大芝の住所が間違へてるのではないか知ら。
広島市大芝町十二組一六五四ノ一 横山ムメ方として書いてね。
私も出さないけど、豊からもちっとも来ないから
どうしてか知らと思って一寸心配しています。
昨日、長尾さんのお母さんが寄って下さった時西城の話も少し聞きました。
豊も元気だったさうですね。
それから小學生全集でなくて
其の前にお父様が修養全集と云ふ本を沢山お送りになったけどつきましたか
ついたか、つかないか知らせて下さいね。
もうずっとずっと前でした。四つか五つの小分けにして送ったんですよ。
それから平岩先生のお部屋のカーテンをお父様が取付にいらっしゃる筈でしたけど
十六日から召集でお出になり店の人も今家疎開のお手伝いで忙しいので
少しおくれますと申し上げて下さい。
生地をどなたかおことづけしてそちらで塗って取付ていただくといいのですけどね。
今日はとても字がきたなくてなって読みにくいでせう。
少し疲れたので手が云ふ事きかないの。蓉子も元気ですよ。よくお手伝いします。
今、良子姉ちゃんと二人 片山の二階にいます。
お祖父ちゃんは下です。今、お風呂に入っていらっしゃいます。
西城からも北斗七星は見えるでせう。
お母さんもお天気の夜は毎晩見ます。
お座布団は破れたままでどうしてるかと心配して居ります。
では、今夜はあまりおそくなると電気をつけてゐるのがいけないからやめます。
元気で勉強しなさいね。
七月二十一日 さようなら
豊殿 母より
前の手紙を書いたまま出さないでゐる中に今日豊から手紙が来ました。
大芝にきてゐたのを持ってきてもらったのです。元気ですね。
それに本も着いたさうで安心しました。でも小包って随分長くかかるものですね。
あの本なんかもうずっと前に出したもので忘れる頃ですよ。
今日■に片山も(今の私達の家)疎開にきまりました。
今日から一週間の間に立ち退かねばいけません。
此度は前のだるま屋(あれは横山の家です)に行きます。
友田君の家の真前です。今、友田君の家の店は長崎屋になって居ります。
此度の疎開は相当大きなもので
本通も三村の本屋から片山とずっと郵便局の前まで全部無くなります。
一丁目も警察の横から久保の刀屋の所まで
第一銀行の横からやっぱり向うへずっと大野塗料店、山本茶屋等全部なくなります。
皆、とても忙しいのよ。
私達も疎開したばかりで又疎開なので皆が気の毒ですね。って云ってくれます。
だるま屋に行っても又疎開になるかも知れませんね。
大芝の方か何処か家があれば其処に行き度いのですが
家がないので仕方ありません。
あちらこちらとグルグルまはりませう。
では、又今度ね。体に気をつけて下さい。 さようなら
七月二十三日 夜
手紙はやっぱり大芝の方に出して下さい。
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戦時中の手紙 1945年5月4日 横山幸子の母から疎開先の長男へ
http://zaawawa.exblog.jp/29953139/
2020-03-08T22:27:00+09:00
2020-03-08T22:27:55+09:00
2020-03-08T22:27:55+09:00
unima
戦時中の祖母 横山幸子手紙1945
そちらは皆さんとたのしく毎日元気で勉強してるでしょうね。
常正ちゃんも元気よく学校に通って居ります。
九州は毎日ビー二十九がきます。
けれど鹿島は何事もありません。時々空を通ります。
本は豊ちゃんの組の皆さんへあまくないカリントウを送りました。
先生のお名前をぞんじませんので豊ちゃんあてに小包を送りましたが
つきましたら先生へおあげして皆さんへおあげして
いただくように申し上げてのください。
おさとうがありませんのでおいしくはありませんけれども
尚、小包がコワレズぶじについたかどうか、あとでハガキに書いて知らして下さい。
おからだをよくきをつけて下さい。
先生のお名前を知らして下さい。 さようなら。
五月四日 鹿島のおばあちゃんより
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原爆で亡くなった私の祖母から疎開先の長男への手紙 1945年7月6日 横山幸子
http://zaawawa.exblog.jp/29951148/
2020-03-07T15:05:00+09:00
2020-03-07T15:05:42+09:00
2020-03-07T15:05:42+09:00
unima
戦時中の祖母 横山幸子手紙1945
此度のは豊がとてもよくわかります。あのすました顔!!!
「豊ちゃん」って呼んだら「ハイ」って返事しさうですね。有難う。
お母さんはね二、三日前から大芝の家に来て居ります。
しばらく良子お姉ちゃんと交代したのです。
しばらくしたら又大手町の方に行くつもりにして居ります。
こちらで豊に送る敷布団に白い布をかけたり荷造りしたりするつもりです。
今の所、
敷布団一枚と小学生全集とくつ下(毛)カンナ等一緒に荷造りしやうと思ひます。
まだ他に送ってもらひたいものがありますか。
大芝の家の近所は広々とした畠で丁度 鹿島の森田の近所の様です。
田舎は気持がいいわね。
お夕食いただく部屋の窓から
夕焼けのきれいな空がまるで四角な絵の様に美しく見えます。
七月六日
衣料切符を同封しておきます。皆元気です。
今、大手町の方から電話が(御近所の中村君の親戚の日垣さんと云ふ家で何時も電話をかります)かかってきてお父様が又、警備召集がかかって入隊なさいました。
此度は何日間かよくわかりません。
時局が■切迫して居りますから長いかもしれませんね。
呉の五反田の叔父様のお宅も此の間の呉空襲でやけました。
宇都宮もやけましたけど宇都宮の方は皆
阿賀の方へ疎開していらして呉には誰もいらっしゃらないのです。
熊本へもB六十機程行きましたから
勝屋の皆さんもどうしていらっしゃるかと思います。
中小都市が今B空襲の矢面に立ってゐますから廣島も何時どうなるかわかりません。
でもちゃんと疎開を完了して居ますから たとへそう云ふ時でも心配しないで
安心してゐて下さいね。そして此度から手紙は大芝のの方へお願いします。
手紙を書いている傍で蓉子も書いて居ますが一行書いてはシャベリ
一行書いてはオシャベリ おしゃべりばっかりしてます。
どんな事を書くか さぞ面白い事を書いてゐるでせう。
袋町の生徒も今日出発しました。豊も少しは淋しいかもしれませんが日本中の生徒が皆同じなんですから その気持ちを通り越して強くならなければいけませんね。
淋しいには違いありません。それは■理もない事ですがそれに負けては駄目です。
それに打ち勝つ丈の強い意志を持たなければいけませんね。
付属の子どもではあるし、それにもう五年生ですもの。
もうそれ位出来ると信じて居ります。お母さんも同じです。
豊とお母さんと競争で強くなりませう。フレーフレー
歌でも歌って朗らかに過ごしませうね。と云っても
お寺でおつとめのお経をあげていらっしゃる最中に
「・・・・・・・・・」だなんて歌ってはいけませんよ。
そんな事でもしたら平岩先生が
「アレアレ 横山はちと左巻になったかな コリャ コマッタ コマリマシタ」
と思案投首なさると大変ですものね。
ほんとに自分をきたえるのにはとてもいー機会ですよ。
いー先生方とご一緒でそれにお友達も沢山いらっしゃるし
おやさしい寮母の方も二人手らっしゃるし、
ここでしっかりきたえられたら
お母さんの傍で甘へてゐた時より帰っていー結果になると思ひます。
体も心もしっかり強くなる様心掛けて下さい。
お話する時は相手の目をはっきり見てね。
言葉をはっきり最後まで明瞭に云ふ事ね。
お母さんは楽しみに豊の成長を待って居ります。
さて、これからは忘れ物の事
1.石鹸箱、水筒、防水袋(ヌレ物入)に名前をつけるのを忘れましたから、
すぐ糸か何かで縫火つけて下さいね。
2.木の名札(付属の)を忘れてゐますから字引と一緒に送ります。
平岩先生にもどうぞよろしくね。寮母の方もね。
豊殿 幸子
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原爆で亡くなった私の祖母から疎開先の長男への手紙 1945年6月29日 横山幸子
http://zaawawa.exblog.jp/29951050/
2020-03-07T13:47:00+09:00
2020-03-07T13:47:15+09:00
2020-03-07T13:47:15+09:00
unima
戦時中の祖母 横山幸子手紙1945
の丈ではなく自分のもちゃんとお盆にのせて二階に持ってきて一緒に食べます。
昨日、便器を捨てていらっしゃいと云った時はさすがに「クサイネーー」と云って
中々ハイと云わなかったの。
そして「蓉子は自分のオシッコぢゃないの がまんしていってらっしゃい」
って云ったら変な顔をして「はーい」って仕方なささうな返事をしてたけど
その中にタオルを顔にまいて鼻をかくしソロリソロリと持って行っていました。
おかしいやら一寸キノドクやらで笑ふにも笑へないで
一人でニヤリニヤリしてゐました。
此の間の呉空襲の時は一寸心配したらしいのね。
こちらは何の事もなく皆元気ですから安心して下さい。
東京の森田はね
お隣がやける時は■が上からかぶさってきてとてもあぶなかったんですって。
稔兄ちゃんや達夫さん(間中の坊っちゃん)達が一生懸命でがんばって
とうとう燃えうつらなかったさうです。
それで森田には近所のやけた家の方々が二十人程もいらっしゃるさうです。
稔兄ちゃんもうれしかったでせうね。此度暇があったら葉書でも書いておあげなさい。
お母さん達も稔兄ちゃんに負けない様に頑張りませう。
その為には病気でフラフラしててはつまりませんから早く元気になりませうね。
今日は此の後で平岩組の父兄會がありましたが、そんな具合でお母さんが病気だったのでお父様に行っていただきました。もうお歸へりになる頃だと待って居ります。
今 二階の座敷で書いて居りますが道具類、オルガン、蓄音機はじめ机から戸棚から殆ど疎開させましたからガラーンとしてとても廣い感じがしますよ。
豊が見たらびっくりするでせう。唯お父様の鉄カブトとカバンとお母さんのカバンが一つ置いてあります。でも蓉子がゐると本やらレッテルやらお人形やら着物やらそこら中散らかしてしまひます。
では、もうお夕食ですから 又此の次にしませうね。
未筆乍ら先生はじめ 皆々様によろしく
六月二十九日 さようなら
豊殿 母より
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原爆で亡くなった私の祖母から疎開先の長男への手紙 1945年6月1日 横山幸子
http://zaawawa.exblog.jp/29950502/
2020-03-07T00:09:00+09:00
2020-03-07T00:09:39+09:00
2020-03-07T00:09:39+09:00
unima
戦時中の祖母 横山幸子手紙1945
お父様は今朝七時頃家をお出になりました。
此度は、文理大の中にお泊りになるさうで蓉子が
「ワァーー毎日会へるね」と云って
喜んで居ります。此度は十日位だと云ふ噂です。
夏服を送らふと思ってこれもおそくなってしまひ
また そちらはお寒いから夏服はまだ中に出せうね。
豊の讀む小學生全集など大芝の方へ疎開させました。
もっともっと疎開させやうと思ってゐます。
では又ね さようなら
六月一日
豊殿 母より
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原爆で亡くなった私の祖母から疎開先の長男への手紙 1945年5月24日 横山幸子
http://zaawawa.exblog.jp/29950494/
2020-03-06T23:57:00+09:00
2020-03-06T23:57:38+09:00
2020-03-06T23:57:38+09:00
unima
戦時中の祖母 横山幸子手紙1945
昨日の朝 お祖父様に出した手紙が着きました。
そちらでは今、炊事場をやりかへたりなんかしてるさうですね。
中に忙しいでせう。でも大勢でやるのだから早々とできるでせうね。
お母さんも見たい様です。
第二回目にゆく時はきれいに出来上がってるのが見られるわけですね。
まめなのご飯をいただいたり、おはぎをいただいたり
広島にゐる時とは又違った楽しさがあるわけですね。
明日、前田さんと小日向さんがいらっしゃるから、
画板と習字の本と葉書等お願いします。大工道具のカンナはも少し待って頂戴ね。
後で送りませう。夏服ももう送りませうか。
お母さんは今から二丁目の■会に行かねばいけないから
今日はこれ丈ね さようなら
五月二十四日 母より
七郎兄ちゃんはもう久留米に行かれました。
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原爆で亡くなった私の祖母から疎開先の長男への手紙 1945年5月3日 横山幸子
http://zaawawa.exblog.jp/29950435/
2020-03-06T23:11:00+09:00
2020-03-07T13:11:51+09:00
2020-03-06T23:11:23+09:00
unima
戦時中の祖母 横山幸子手紙1945
此度のお手紙には美味しい物のお話が沢山あったので
お母様もヨダレが出る様でしたよ。
蓉子も「ワァーーーーお兄ちゃんはいーね。蓉子も行きたいね」
と云ってニヤッと笑ひました。
そんなにおいしい物がいただけるのも寮母さんをはじめ皆さんのおかげですよ。
皆さんのおやさしい心のそんなご馳走になってあらはれるのですよ。
ほんとに有難い事ですね。
昨日から又茂子姉ちゃんが来ていらっしゃいます。
乙彦さんという弟さんも一緒で賑やかです。
二、三日で東京にお帰りになるのでせう。
茂子姉ちゃんはやっぱり津山に帰られます。
お父様はお元気で相変わらずお店の仕事にお忙しく過ごしていらっしゃいます。
此の間B公が来た時は一寸驚きましたよ。
でも家はガラスがわれないし、ちっとも変りはありません。安心して下さい。
蓉子がすっかり興奮してね あの日一日たえまない程おしゃべりばかりしてゐました。
当日丈學校をやすんで翌日はもう行きました。
とにかく大きな音だったのにはおどろきましたね。
広島の人は少し呑気過ぎると云われてゐたから丁度いーお薬ですよ。
あれから大分皆緊張した様ですよ。
鹿島の森田に豊の事を知らしてやったらね
森田のお祖母ちゃんが豊達四十人何か送ってやらふかって
手紙に書いていらしたから何か送って来るかも知れません。
そしたら先生にあげて皆にわけておもらひなさいね。
多分、メリケン粉を細長くして油であげたカリントウでせう。
でもお砂糖がないから甘くはないでせうよ。甘くなくてもおいしいですよ。
九州の方も空襲が毎日で大変らしいのよ。
昨日鹿島から来た手紙は一週間もかかってゐました。
鹿島の方は大丈夫でせうけれど通り道ですからね。
常松ちゃん達もどうしてゐるかと思ひます。
本の足りないのだけ送りませうね。讀方の方はも少し後でないとよくわかりません。
今の所無いのです。
では、御体御大切に
五月三日 さようなら
豊殿 母より
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原爆で亡くなった私の祖母から疎開先の長男への手紙 1945年4月21日 横山幸子
http://zaawawa.exblog.jp/29950095/
2020-03-06T18:27:00+09:00
2020-04-05T13:49:58+09:00
2020-03-06T18:27:23+09:00
unima
戦時中の祖母 横山幸子手紙1945
お父様も「これは中々うまい事を書いている。
僕の子どもだけある。」だなんて云っていらっしゃいましたよ。
蓉子も美恵子お姉ちゃまも大喜びでした。此度はお祖父ちゃまと大喜びでした。此度はお祖父ちゃまとお祖母ちゃまに出して下さいね。
お母さんには其の次でいいから。ね。土筆を入れてくださって有難う。
これを豊が取ってきて 何かで押して こんな形にして封筒に入れたかと思ふと
ほんとに 懐かしくって 何時までも何時までも眺めました。
そうすると
豊の取ってる姿やら押葉にしてる姿などが目の前に浮かんでくる様でした。
すぐ蓉子にも見せました。
「コレ ツクシネ ペシャンコ ヂャ ネー」と云ってましたよ。
蓉子はツクシはあのままで送られると思ってゐたのでせうね。
蓉子はね、此の頃
疎開のけいこだと云って下のお祖母ちゃまや恵美子叔母ちゃま達と一緒に寝ています。寝巻と枕を持って「おやすみなさい」と云ってさっさと下へ行きます。
お祖母ちゃんや美恵子叔母ちゃま達の上へゴロゴロゴロゴロころがったり
さかさになったりして 大あばれするさうで、
今朝もお祖母ちゃんが「昨夜、蓉子ちゃんがお祖母ちゃんを足でけったよ」と云って
笑っていらっしゃいました。
蓉子も「コロコロコロコロ」って笑ひました。
お二階は蓉子もゐないし、豊もゐないし、お父様と二人でポツリンとしてゐます。
蓉子は此の頃は割に早々起きるけど、でもお洋服を着るのにグヅグヅしてると一年の福岡君や水戸さんが呼びに来る事があります。
「横山さーん」と云ふ聲がすると大急ぎで御飯をパクパクパクと食べてしまって
「お母ちゃん お辨当頂戴」
「お母ちゃん 行って参ります」と云って皆と一緒に出て行きます。
豊達も學校に行くのですね。皆揃って並んで行くのでせう。にぎやかでいーのね。
きれいな學校ださうですね。初めは何となく落着かないでせうけど、でも何時でもそれではいけませんよ。落着いたらしっかり勉強しなさいね。
美恵子叔母ちゃんに出した手紙に肥つぼを水槽と間違えてのぞいたらとてもくさかった書いてあったので皆大笑ひしました。肥つぼに落ちない様に気をつけて下さいね。
家の二階の水槽の金魚は皆ピンピンしてゐます。
今日お父様が蔵の前の水槽のフナを三匹入れられましたから、
ますます賑やかになりました。
あそこは あれ お金魚がゐるから蚊のボウフラがわかないはずなのに、
もう蚊が四、五匹ブンブンとんできますから不思議に思ってゐます。
とても大きな蚊なのよ。
早々今の中に退治してしまはないと今年の夏が大変でせう。
明日は天長節ですね。お父様のお誕生日も明日です。
お父様は今年三十七才ニオなりになるのよ。
豊はお父様が二十六才ニオなりになった時に生まれたのですよ。
お母さんは二十二才でした。
十二月の寒い時でね、豊を風邪引かさない様に、
まだ目も開いてないマッカなグニャグニャの豊の両側に
湯タンポを二つ入れて暖めたのですよ。
お乳をのんだ後小さな口をますます小さくして
一寸おきどりみたいな顔をするのが癖でね。
今でも思い出すと一人で笑ひたくなります。
お父様が豊が生まれたら
その翌日に玩具の刀と犬を買ってお歸へりになったのも昨日の事の様に思ひ出します。初めの中は二時間毎にフギャアーフギャアーと泣くので、
赤ちゃんと云ふものは とても セッカチだと思ひました。よ。
夜でもお母さんが一寸眠らうと思ふとフギャー!!!
お乳をのませて漸く亦眠ろうと思ふとフギャアー。
ヤレヤレ カナワン ネー と思ひましたよ。ホホ・・・。
それが今ではこんなに大きくなって
一人前に上手な手紙を書く様になったのですものね。
フギャアー フギャアー さんも中に偉くなりましたね。
フギャアさん 此の頃は如何ですか。
大分暖かになってきましたね。晝間(晝間)はあつい様でせう。
汗が出たらよく拭かないと風邪ひきますよ。
汗を拭くと云っても豊のは体の十分の一位をチョイチョイ と拭いて
もう「すんだよ」ってすましてるのでせう。
ホラ、お家でも「豊ちゃん お手洗っていらっしゃい」
「ハイ」お風呂場の水道をヂャアー 手の指先をチョイ チョイとぬらして
カーテンでチョコ チョコと拭いて「洗ってきましたよ」
母「どれ 見せてご覧。豊のは手の指先丈なの 駄目駄目洗い直していらっしゃい」
豊「エヘヘ・・・・・・」って又お風呂場に行って
斬やく手全体を洗ってきてゐましたね。思い出すでせう。おかしいでせう。
お母さんもおかしくて笑ってゐます。そちらではちゃんと洗ってゐますか。
又チョイ チョイ チョコ チョコだったら駄目よ。
それからね まさか 顔を洗ったり歯を磨いたりするのを忘れてはゐないでせうね。
「豊ちゃん買おう洗った?」「あれ忘れちゃった」だなんて事ぢゃーコマリチングよ。
今日は二丁目の常会でお父様がいらっしゃいました。
此度は荻野さんが町内会長で木村さんが副会長です。藤井さんはおやめになりました。
お父様は軍事援護部長と云って出征家族の慰問などを主にやる仕事です。
でもお父様も又一月の二日の後には兵隊に出られる様でせう。
お父様にもしっかり手紙を出して下さい。
良子姉ちゃんから五年生の本を貸してもらひましたが、送りませうか。
何と何が足りないのか知らせて下さい。
未筆乍ら平岩先生はじめ寮母様方によろしくお伝へ下さい。
豊も体に気をつけて元気でやって下さいね。
四月二十一日 さようなら
豊殿 母より
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